月200時間残業の社畜が辿り着いたのは、シャッフルダンス漬けの日々でした。

社畜だって楽しい人生を送りたい。200時間残業→10時間残業で収入10倍になって、趣味や生きがいに生きるハイブリッド社畜のブログ。シャッフルダンスの話がメイン。たまにアイドルなどの話もします。Youtubeでダンス動画等も公開しています。

Tips.3「不快なもの全てをブロックすれば幸せになれるか?」

 

このブログはあくまでダンスブログなので、

こうした端話はTipsとして取り扱っていく。

頭の端っこにでも引っかかればいいな、くらいの感覚で書いているので、

子どもの頃投げて遊んでいた、ひっつき虫程度の感覚で読んで欲しい。

こっちの方が書きやすいのは内緒。

 

毎度恐縮ではあるが、良いなと思った方は、

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それで表題の件だが、いかがだろうか。

少し考えてみて欲しい。

 

・自由度が上がった多様性について

「多様性」という言葉は、近年になってよく聞くようになった。

要は「世界には色々な人がいるのだから、みんなで尊重し合っていきましょう」という事だ。

 

この考え方自体には筆者も賛同はする。確かにいろんな人がいる。

だが、「多様性を受け入れる」ことは「その在り方を認める」ことで、

あくまで「そういう人もいるよね」という考え方だ。

 

つまり、「全ての人と仲良くやりましょう」ではなく、

「その存在を認めない」という反発をしない、ということだ。

 

例えるなら、男性蔑視、女性蔑視のようなものから、

ヴィーガンのような肉食蔑視などもそうだが、

「自分が信じるもの」があり、「それ以外」を下に見るような考え方は、

「多様性を受け入れる」以前の話なのはご理解いただけると思う。

 

念の為、予防線は貼っておくが、そういった方々については、

筆者は個人的には「そういう人もいるよね」としか思っていない。

 

・コミュニティの在り方の変化と考え方の変遷

SNSが人々を繋ぐようになった今日。

リアルの関係性が完全に希薄になったとまでは言わないが、

ネットとリアルの重要性(優先度などの考え方)には多少変化はあるだろう。

 

「パーソナルスペース2.0」とでも言うのだろうか、

以前は、職場や地域コミュニティなどのような人の集まりに於いて、

業務上はまぁさておき、プライベートにも踏み込んだ関係が、

ある程度までは求められる時代があった。今でもあるところはある。

 

平たく言えば、「円滑な付き合いのためのある程度の犠牲」だ。

もちろん、リアルの付き合いが好きな人はいるだろうし、

そういう方にとってはこの言い方は正しくない。

あくまで筆者がそうした立場で話しているだけだ。ご容赦いただきたい。

 

実際問題、仕事を行う上でコミュニケーションは必須だ。

1人で完結しないことの方が多いため、依頼し、依頼され、

それを相談しながら、終われば報告して完了となる。

その際に、ある程度の友好的な関係は必要であるし、

サビつきが生じれば、歯車全体の動きに支障がでる。

 

ただ、ここで言いたいのは、

そうした友好的な関係を築くために、必ずしもパーソナルスペースに、

全員を招き入れる必要性が無くなっているということだ。

個人的には、そもそもその必要性は感じないわけだが。

 

胸襟を開いて話しましょう。という建前で飲み会がある会社もあるだろう。

そして、若手は嫌がる人が多いというのが筆者の個人的な見解だ。

「酒を飲んだところで、会社の人と仕事の話以外にすることはある?」

というのが、大体の人の意見だ。さもありなん。

 

というのも、昔と今ではコミュニティの在り方が異なる。

情報社会が広まってからというもの、会社以外のコミュニティに属する機会が増えた。

身近な人として、会社の人以外の存在が増えたと考えて良いだろう。

 

それは、学生であっても同じことが言える。

良い意味でも悪い意味でも「檻の中以外の世界」が見えるようになった。

この事自体は、きっと良いことだと筆者は信じている。

 

・見える世界が広がるということ

さて、コミュニティの在り方が変わり、

貴方が接する世界は昔に比べると格段と広くなった。

 

それはつまり、様々なものや人と出会う機会が増えたと言える。

良いことだってたくさんあるが、困ったことも同じように生じている。

言葉は選ぶが「個人が望んでいないものとの出会い」だ。

偶然の幸運な出会いをセレンディピティと呼ぶが、その逆と言える。

 

分かりやすいのでTwitterを例に挙げよう。

Twitterをある種の都市のようなものと考えて欲しい。

ビルが立ち並び、中には一軒家なども広がっている。

フォロワーが多い人はどんどん高いビルになっていく。イメージは湧くだろうか。

 

ビルが高くなるほど、人の目に触れる機会は増え、

色々な人に見つけられる機会がどんどん増えていく。

そして、悲しいことにビルが高ければ高いほど、

やっかみや心無い意見も比例して増加するのもわかるだろう。

 

ここで再度、タイトルに戻るのだが、

そうした「本人にとってどうでも良い意見」を、

「全てシャットアウトすることで幸せになれるか」という問いだ。

 

・全ての悪いことから目を、耳を塞ぐこと

ここからはあくまで筆者の個人的な意見となる。

この問いについては「別にいいんじゃない?」が回答だ。

 

念の為、補足と先回りして擁護はしておきたい。

こういう話をすると「嫌なことから逃げると成長しない」という批判が来るが、

それは当たり前だ。今ここでしているのはそういう事ではない。

 

例えば、仕事や人との関係など「やらなくてはならない責任や義務」は、

こなさなくてはならないことのは当然だ。

 

大抵の場合、「やる必要はあるが嫌、または面倒くさいこと」が、

その人にとって有用であることは多分にしてある。

 

今回言っているのは、「避けても問題のない、しょうもない障害」のことで、

偶発的な問題、要は「流れ弾」と言っても良いような問題を指している。

急なクソリプとか、要はそういったものだ。

 

そうした内容については、筆者は基本全スルーを推奨したい。

人生は短いのでしょうもない事に時間を費やすのは無駄としか言えないだろう。

 

それならば、「仲の良い人の良いとこを探して伝えてあげる」とか、

「自分のやりたいことに時間を使ってみる」とか、

プラスになるようなことに励んで欲しい。

 

・区分けについてはしっかりと

念押しになるが、前段で話した「区分け」を間違えないで欲しい。

「やるべき事」に文句を言い続けているうちは停滞しかしない。

やることをやり、それでも飛んでくる心無い意見は避けるべきだろう。

 

もちろん、そんな流れ弾が飛んでくれば、

嫌な気分になることは当然だし、心がざわつくこともあるだろう。

それでも、「そういう人もいる」と一旦受け止めることが必要だし、

受け止めてもなかなか消化出来ないことだって、ままあることだ。

 

それであっても、流れ弾に打ち返すことはナンセンスだし、

無駄な労力である事が多い。喧嘩したいなら止めはしないが。

 

心を平らかに保ちたいのであれば、自分の土台を揺さぶってくる人からは、

まずは一回引いて、木の陰からこっそりと覗くことを推奨したい。

怖いもの見たさで覗いて、周りの評判も色々聞いて、

石橋をボッコボコにぶっ叩いた上で大丈夫そうなら、

決死の覚悟で触りに行くことはありだろう。

 

ただし、用法容量を守って、あくまで自己責任でお願いします。

 

2020.1.14 Hachi