月200時間残業の社畜が辿り着いたのは、シャッフルダンス漬けの日々でした。

社畜だって楽しい人生を送りたい。200時間残業→10時間残業で収入10倍になって、趣味や生きがいに生きるハイブリッド社畜のブログ。シャッフルダンスの話がメイン。たまにアイドルなどの話もします。Youtubeでダンス動画等も公開しています。

page.45「否定と批判と非難の違い」

今回はダンスの話ではない。

コミュニケーション」についての話となる。

 

何故ダンスブログにこんな話が出てくるかと言えば、

それだけダンスラッシュ自体が成熟中の世界であり、ぶつかり合いやすい界隈だからだ。

 

一つ断っておかないといけないが、

筆者はコミュニケーション下手な方だ。

だからこそ、どうすれば円滑に進むかを考えるし、

その過程で色々と見えることもある。

今回書いている内容は、その中の一つと捉えて欲しい。

 


以下、目次だ。

1、物事を柔らかく受け止めるために

2、言葉を相手に正しく届けるために

3、まとめ

 

1、物事を柔らかく受け止めるために

・そもそも、何故この記事を書くか

答えは簡単だ、「より良い界隈になって欲しいから」に尽きる。

自分の好きな世界を、もっと周りにも好きになって欲しい。

 

しかし、どうしても人が集まれば軋轢が生まれる。

 

ダンスが上手い人がいれば。

容姿が良い人がいれば。

目立っている人がいれば。

 

相対的に自分を見て、比べてしまうのは普通なことだろう。

そこから、素直に凄いと感嘆の気持ちを感じる人もいれば、

妬みや嫉みの感情が出てきてしまう人がいることも否定はしないし、

しっかりと、自分と相手の距離感が測れているからこそ、

そういった気持ちが表れている。正常な状態と言っていい。

 

昔であれば、その気持ちをぶつける先として、

ダンスであれば、より上手くなるために練習に費やしたり、

学問であれば、もっと知識を得るために知見を増やしたりと、

抑圧された気持ちを昇華する」という心理作用が働きやすかった。

 


今では、その鬱屈した気持ちを自分の中で煮つまる前に、

そのまま流すことが出来る場所が増えてきた。

それによって、問題に対して考えて、意見や答えを持つという、

問題に向き合う時間が減った感は否めない。

 


それももちろん良し悪しであるとは思うが、

考えない事については、ちゃんと考えれば悪い方向な話だろう。

 

・承認欲求と反動

人の3大欲求の上位の欲求の中に承認欲求はある。

それは大まかに言えば「人に認められたい」という欲求だが、

その要素としては、おおよそ2つある。

 

・地位、名誉 … 人より優れた立場にいる

・技術、成果 … 人には真似できないようなことが出来る


とにかく、人にはないものを「持つだけ」でなく、

それを「持っている自分」を言動によって認められたい気持ち、

それを承認欲求と言って大体間違いはないだろう。

 

もちろんこれは筆者にもある。

そうでなければ、動画を撮って人に見られる場所に置くことはしないし、

こうやって、文章をブログという形で公開したりしていない。

 

創作物には作った段階で自分の中に生じる、

達成感や満足感のような「1次的価値」と、

それを人から見られて評価をもらうなどで生まれる「2次的価値」に分かれるわけだが、

表現する人としては、「自分はこう思うけど、貴方から見てどうなのか」は気になるところだろう。

 

ここからが本日の本題である。

 

・否定と批判と非難

別段これは言葉遊びではない。

筆者の基準となるが、少し話をしたい。

 

◯denial…否定

deny(否定する)という意味の名詞。

物事に対して賛同しないという行為を指す。

あくまで立場を表す行為であって、そこに個人の考えや感情は介在しない。

 

その為、否定の後には何かしらの理由付けが入ることが多い。

 


◯criticism…批判

criticize(批判する)の名詞。

 

批判というのは、「何がしかの事象に対して、自分の考えを基準にしてそことの違いを指摘することで、話を次の段階に進めるための行為」を指す。プラスの方向性を含む。

 

◯blame…非難

非難は「相手の欠点、落ち度などをあげつらって、下に落とそうとする意図を持って発せられる行為」のこと。マイナス方向で感情的なことが多い。

 

これらを分かりやすく分類すると、「相手と自分との心理的距離」で分かれている。

 


◯否定

「相手と自分を完全に離した状態」

一度完全に離れてしまった状態。

 

◯批判

「少し距離を取り、自分と相手がよく見えるようにした状態」

相手をしっかり見るために距離を離した状態。


◯非難

「相手にガッツリにじり寄った状態」

相手に手が届くくらいの臨戦態勢。

 

ないに越したことはないが、普段貴方が誰かに対し否定的な気持ちを抱く時、

その心的距離はどのくらいなものか、一度考えて見ても良いかもしれない。

 

意識して、自分の気持ちに向き合うと相手との距離感に気付けるのだが、

意識をすれば、「相手と自分の距離」をしっかりと把握することができるだろう。

 

・物事を柔らかく受け止める

人とのコミュニティにいれば、批判だけでなく、非難や否定が飛んでくることもある。

 

一番簡単で、一番楽な対応は、

感情を抜きにして、一旦「そういうもの」として飲み込んでしまうことだ。

 

物事にプラスの側面だけがあるわけではない。「そう考える人」はいつだっている。

たったそれだけのことで、プラスに思ってくれる人のことが無くなるわけではない。

大抵の場合、「それはそれ、これはこれ」だ。

 

というより、一つの表現にそれだけ非難をするというのは「むしろ好き」だろう。微笑ましい。

表現者を殺すのは、いつだって「無関心」なのだから。

 

2、言葉を相手に正しく届けるために

・言葉を使うことの心構え

先に断っておきたい。

これから書くことは「相手に悪意を持って言葉を発する人」に届くことは決してない。

 

言葉は相手と自分の距離を測るものさしであり、

相手と自分を繋ぐ架け橋であり、相手を癒す薬であって、

人を傷つけるために存在しているものでないと筆者は信じているし、何よりも、

 

言葉は力」であることを、ずっと意識し続けている。

 

・全ては想像力

LINEだって、twitterだって、掲示板だって全てそうなのだが、

この言葉を相手に渡すことでどうなるだろう」という想像をして欲しい。

 

最初のうちは、その想像したことが正しいかどうかが分からないこともあるし、

間違っているかもしれないと思う気持ちもあると思う。

そして想像した結果と違ったとしても、

その「想像した時間」が優しさであり、責任として現れるのだろう。

 

言葉はなによりも人となりを表す。

貴方の表したい自分がそこに現れている。

 

3、まとめ

・優しい世界であって欲しい

非難が起きてしまう背景には、「自分への肯定感の低さ」があると個人的には思っている。ソースは私だ。

 

ただ、だからこそ強い輝きを持つものに出会ったとき素直に「凄い」と思えるのだし、

その光を道標に歩いて行くことができる。

 

その姿を誘蛾灯に向かう虫のようだと、悪し様に言う人はいる。別に良いだろう。

それはその人の世界であって、私の世界ではないのだから。

 

同じものを見ても、素直に自分で良いか悪いかを判断して、それを物差しに考えられるようになって欲しい。

 

それを、正しく相手に伝え、認識の違いを話して分かり合える世界こそが、

恐らく、私の考える「優しい世界」なのだと考えている。

 

願うらくは、皆さんの優しい世界に近づけることを。


2019.8.4 hachi